街道が左右に分かれる道標として建てられた石を追分石(おいわけいし)といいます。 江戸時代に田代宿は轟木宿とともに長崎街道の重要な宿場でした。その田代宿の東口(田代昌町)と西口(田代外町)にそれぞれこの追分石があります。それぞれ高さは約1mほどの自然石が利用されています。 東口のものは「右‐ひこ山、左‐こくら、はかた道」と彫られており、、享和2年(1802)の尾張の商人菱屋平七(ひしやへいしち)の旅日記「筑紫紀行」にこの追分石の記述があります。 また、西口のものは東口と同じ書体で「右‐さか、左‐くるめ道」と彫られており、文化2年(1805)の大田南畝(蜀山人)(おおたなんぽ;しょくさんじん)の「小春紀行」に記述があります。 これらの記録から、現存する追分石は1800年頃には建立されていたことがわかります。
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